妙心寺の塔頭智勝院は、稲葉一鉄(西美濃三人衆の1人で美濃曽根城主)の嫡男貞通の
法号を寺名とする寺であり、光秀の重臣斎藤利三はこの寺に葬られている。
利三は、斎藤伊豆守利賢の子として天文7年(1538)に生まれ、はじめ斎藤義龍、
次いで稲葉一鉄に仕えたが、元亀元年(1570)光秀に仕えたと言われる。
利三にかかわる逸話があり、それは利三ははじめ稲葉一鉄に仕えていたが、故あって光
秀に仕えるようになった。そこで一鉄はこのことを信長に訴えたので、信長は光秀に利三
を返すように言ったところ、光秀は「良い部下をもつことは上様のためである」といって
ことわった。そのため信長は怒って光秀の額を敷居に押しつけて折檻したという。
利三は、明智秀満、明智次右衛門、藤田伝五、溝尾勝兵衛らとともに本能寺襲撃の謀議
から加わったが、山崎の合戦に敗れたあと再起を期して近江堅田に潜伏中捕らえられた。
その後、羽柴秀吉のもとに送られて後京都三条河原で首を切られ、光秀とともに磔にされた。
智勝院の過去帳には、「湖翁宗西居士」後に院号を付したと思われる「陽剛院忘蹄利三
大居士」とあり、天正10年6月17日没の享年45といわれる。
また、斎藤利三と親交のあった絵師海北友松が、礫場から遺体を夜陰にまぎれて運び葬ったとされる墓が、京都黒谷の眞如堂にもある。
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| 智勝院の山門 | 斉藤利三の墓 |